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サルガッソー

真夏の太陽に雪が降るのだ
2024
05,13

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2006
11,18
インドネシア
「1942年3月、オランダが日本に降伏すると、民衆はいたるところで歓呼して日本軍を迎えた。日本もまたアジアの諸民族を白人の支配から解放するために進撃してきたことを宣伝し、インドネシア人は兄弟として日本と協力すべきだと主張したのである。
 日本は検閲を強化し、オランダ語と英語の使用を禁止し、インドネシア語を統一語として使用させた。しかし同時に日本語の普及にもつとめた。
 やがて日本の軍政は、インドネシア人の民族精神への干渉にまで及んだ。日本の天皇をマハ・デワとしてあがめさせ、その居住する東京に向かって頭を下げることを強制した」。
(中学3年生用『インドネシア史』1974)


「当初、日本軍の到来はインドネシア民族に歓迎された。インドネシア民族は、長く切望した独立を日本が与えてくれるだろうと期待した。
 どうしてインドネシア民族は、このような期待を持ったのだろうか。それは日本がやってきてまもなく、つぎのような宣伝を展開したからである。

-日本民族はインドネシア民族の「兄」である。日本がきた目的は、インドネシア民族を西洋の植民地支配から解放することである。
-日本は「大東亜の共栄」のために開発を実施する。

 その実体はどうであったか。日本時代にインドネシアの民衆は、肉体的にも精神的にも、並はずれた苦痛を体験した。日本は結局独立を与えるどころか、インドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ。その行いは、強制栽培と強制労働時代のオランダの行為を超える、非人道的なものだった。資源とインドネシア民族の労働力は、日本の戦争のために搾り取られた。このよな事実を見て、かつて民族主義運動で活躍した指導者たちは、安閑としていたのだろうか。もちろん、そうではなかった。彼らは、民衆の側に立って闘い続け、独立を達成するために民衆の闘争精神を育てたのである。彼らが闘っていた相手は、残酷なことでは非常に名高い日本軍だったから、彼らの行動は大変注意深いものだった。民族主義者たちは、表立って日本軍政府と対立しなかった。それは非常に危険であり、闘争を有利にしなかったからである。日本軍は、抵抗する者はだれであろうと、遠慮せずに殺した。」
(小学校4年生用『歴史』1977)

日本の占領は、後に大きな影響を及ぼすような利点を残した。
 第一に、オランダ語と英語が禁止されたので、インドネシア語が成長し、使用が広まった。日本軍政の3年半に培われたインドネシア語は驚異的発展をとげた。
 第二に、日本は青年達に軍事教練を課して、竹槍、木銃によるものだったとはいえ、きびしい規律を教え込み、勇敢に戦うことや耐え忍ぶことを訓練した。
 第三に、職場からオランダ人がすべていなくなり、日本はインドネシア人に高い地位を与えて、われわれに高い能力や大きい責任を要求する、重要な仕事をまかせた
インドネシア『歴史教科書』中学3年用

 ●労働者の搾取
 主に田舎の住民である「労務者」は、日本に強制的に働かされた。特に軍の施設や防衛のための防壁や、列車の線路などをつくった。多くの「労務者」は現場で死んだ。その悲しい状況は結局、口からロヘ伝えられ、村の人々全員の知るところとなった。
 ●インドネシアが独立した背景
 抗日運動は、インドネシアの独立の実現につながっていった。対日闘争を実施するのに、インドネシアのリーダーたちは非常に慎重だった。日本の占領がとても冷酷だと知られていたからだ。もし、はっきり抵抗すれば、日本占領政府はすぐに誰でも殺すだろう。このため闘争の方法は、その時々の状況に合わせていた。
(「中学校2年生歴史教科書」=エルランガ出版社)

 ●日本による植民地支配
 日本がはじめ、インドネシアの民衆にたいして親切でやさしい態度をとっていたのは確かである。しかし、時がたつにつれ、日本のインドネシア民衆に対する態度は、変わっていった。日本の行動は残酷なものになっていった。

 一般に植民者の態度はどこも同じである。つまり、残虐で、搾取的で、非情である。私たち民族の運命は、トラの口からのがれ、ワニの口に入るということわざにたとえることができる。これは、どういう意味だろうか。それが意味するところは、日本がやってきたことにより、オランダ植民地時代に受けた犠牲はなくなるどころか、むしろ、事態は悪化したということである。

 ●インドネシア民衆の犠牲
 日一日とインドネシア民衆の犠牲は、悲惨なものになっていった。民衆が命令に従わないと、日本は重い刑を下した。当時、私たち民族の運命は、実に苦しいものであった。食べ物は、すべて枯渇していた。飢えた腹を満たすために、民衆はおよそ人間が食べる物とはいえないような、タピオカの皮やバナナの皮などを口にせざるをえなくなった。
(「社会科・インドネシア国史2・小学校5年生用」)

 1942年3月、オランダが日本に降伏すると、民衆はいたるところで歓呼して日本軍を迎えた。日本もまたアジアの諸民族を白人の支配から解放するために進撃してきたことを宣伝し、インドネシア人は兄弟として人と協力すべきだと主張したのである。
 (中略)
 しかしやがて日本の軍政は、インドネシア人の民族精神への干渉にまで及んだ。日本の天皇を最高神として崇めさせ、その居住する東京に向かって頭を下げることを強制した。
 (中略)
 3年余にわたる日本の占領は、インドネシア国民の生活のうえに、むしろオランダ時代にもまさる苦悩をもたらした。
インドネシア『インドネシアにおける地理・歴史教科書の研究』1977年

「私たちは、日本が西洋の抑圧からアジア全土の民衆を解放するとの掛け声とともにインドネシアへやってきたことをすでに知っている。しかしその到来後数カ月のうちに彼らは仮面を脱ぎ捨て、アジアの国々を占領して民衆を公然と抑圧した。同じことはインドネシアでも起こった。その圧制のためにあちこちで日本に対する反乱が発生した」227頁

「オランダ領東インドの植民地社会構造ではオランダ人が最上級の国民とされ、次に東洋外国人(中国人、アラブ人、インド人など)が、最後にやっとインドネシア現地人が第3等国民として位置づけられていた。日本による占領時代には日本人が第1等国民として登場し、インドネシア現地人は第2等国民に上がり、中国人、インド人、ヨーロッパ人は第3等に下がった。インドネシアの独立によりインドネシア人は第1等国民に上がったが、インドネシア共和国は人種(皮膚の色)、出自、信仰、種族による差別はしなかった」235頁

「1945年8月15日に連合軍に降伏したのち、インドネシアの日本占領軍は降伏時の状態をそのまま維持するよう連合軍に命令された。その時から日本軍は、連合軍が到着して彼らを武装解除するまで単なる連合軍の道具でしかなくなった。…他方で日本軍は、独立を宣言したインドネシアの民衆と対決しなければならなかった。人民治安団と闘争団体は、すべてのインドネシア民衆とともに日本の手から権力を奪還する運動を始めた。…ほとんどインドネシア全域にわたって、このインドネシア民衆の行動を妨害しようと努めた日本から権力奪還が行われた。その結果、あちこちでありあわせの武器しか持たない民衆と完全武装した日本軍との間に衝突が発生した。インドネシア共和国の主権を確立しようと奮闘する中で、民衆の側から何千人もの人が犠牲となって倒れていった」236頁
インドネシア共和国教育文化省編『インドネシア』世界の教科書=歴史015、1982年(原著:1975年)

日本は、白人の圧政からのアジア民族の独立と大東亜共栄圏の建設というスローガンのもとにインドネシアにやって来た。一致協力していこうという彼らの呼びかけは、いたるところで喜んで迎え入れられた。……日本の占領中はわれわれの祖国は四分五裂させられ、ジャワは軍政府(陸軍)の支配下に入った。これらの軍政府間には直接の連絡がなく、したがって占領中には諸地域間の連絡は切断されてしまっていた。日本はインドネシアを支配するや、すべての出版物や手紙の類に厳しい検閲を行なった。ラジオ放送局もその対象になり、われわれは軍政府検閲済みの放送しか聞けなかったので、読み物も、聞く物も日本軍政府の宣伝ばかりであった。その間われわれ国民には、われわれの敵はイギリスとアメリカであり、また日本民族の先祖は神々であって「アマテラス‐オオミカミ(天照大神)」の末裔である「テンノウヘイカ」は神々の長として崇拝しなければならないことが教えこまれた。白人、とくにオランダ人は忌み嫌われ、オランダ人捕虜の運命や、日本人のオランダ人に対する処遇を知って、われわれはかれらの凋落を目のあたりに見たのだった。そうしているうちにも太平洋戦争は進展したが、戦況はだんだん日本にとって苦しいものになっていった。けれども素晴らしい勝利のニュースに酔わされてばかりいたわれわれは日本軍が蒙った敗北について何も知らなかった。日本の敗退が続けば続くほど、国民に求められる協力も多くなり、国内の生活は苦しくなり国民の難渋もひどくなっていった。……村々では青年たちが捕らえられ、他の占領国、特にビルマへ送りこまれ、そこで「ロームシャ」として働かされた。占領中に数百万のジャワの青年たちが外国へ送られたが、その大部分が死んだり、消息不明になったりしている。この頃には、日本人のインドネシア人に対する虐待と傲慢は顕著になり、わずか数カ月の間に、日本人への熱烈な歓迎は恐れと憎しみに変わっていった。……概して3年半ばかりの日本の占領は、国民に限りない困窮と、オランダ植民地政府以上の残虐で専制的な弾圧、かつてわれわれが経験したことのなかったような苦痛と悲惨を招いた。
また飢饉は猛威を振るった。「ケンペイ」、日本の軍警察に対する恐怖は、ほとんどすべての抵抗を麻痺させていた。しかし、数カ所ではあるが、すでに小さい叛乱も起こっていた。たとえば、インドラマユでは一般大衆が、ブリタールでは日本によって創設されたPETAが叛乱を起こしたが、この二つの叛乱は残忍なやり方で弾圧された。ビルマではわれわれの青年たち何百万が消息不明になったか数え切れないほどである。カリマンタン(ボルネオ)では、民衆、特に知識層に対する大殺戮が行われた。
(スロト著 熊谷令子訳「世界の中のインドネシア」(中学3年用教科書)『軍国主義-東南アジアの教科書に見る日本』合同出版>)


オーストラリア
日本の占領は、実際には経済的搾取が狙いであったが、それでも人々の多くが経験したことのない自治の味を教えた。以前のヨーロッパ人が統治していた時にはくらべもつかない日本の暴政の下でも、以前の状態に戻りたいと言う望みを起こさなかった。
日本が敗北し、再びヨーロッパ人が戻ってきた時、それぞれの国の国民運動の核心となったのである。もはや以前の植民地の状況に戻すことは不可能になった。日本の占領がそうさせたのである。
『世界史』中学生用



西ドイツ 

「当時の時間の経過を詳しく調べるとアメリカ側の公式の説明には疑問がある。投下以前に米ソとも日本の求めた降伏のための接触を無視したのである。したがってこの投下はまったく無意味な手段であった。その目的はただ新兵器の威力の実験と、他国(特にソ連)への示威のためであった」。
(『日本』1970)



旧ソビエト連邦 

「社会主義と資本主義とのふたつの世界の接点に位置する日本は、ソ連と接することでその安全が保証され、相互の経済的・文化的交流が発展する大きな可能性があるはずである。しかし逆にアメリカ帝国主義にとっては、日本の位置がソ連に対する絶好の軍事的前進基地である。そして日本にはアメリカ軍の基地が100カ所以上もある」。
(高校1年生用『諸外国の経済、および社会地理』1981)


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ロイトリゲン
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42
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男性
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1982/01/05
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舞台作用員
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音楽鑑賞
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