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サルガッソー

真夏の太陽に雪が降るのだ
2024
05,13

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2006
12,02
台湾
 ●日本の権力支配
 1895年の台湾総督府成立後、日本政府は台湾に対し不平等待遇政策をとり、また総督が行政、立法、司法、軍事大権を総攬する総督専制の体制を作った。
 ●皇民化運動
 1937年中日戦争が勃発し、台湾は日本の南進政策の基地となった。
兵力の供給源問題を解決するため、日本は「皇民化運動」を実施した。台湾人が日本式の生活習慣を身につけることを奨励し、日本語を話し、日本姓に改め、日本の神々をまつるなどの方式で台湾人の同化に拍車をかけ、日本国民の愛国心と犠牲的精神を持たせた。
 太平洋戦争勃発後「皇民奉公会」が成立して、台湾人民を戦時体制に組み入れ、その後さらに台湾において徴兵制を実施し、日本軍の侵略性と暴力文化が存分に現れ出た。 
(国民中学3年下期「社会3の下」=仁林文化社)


二十余万人に達する台湾籍の軍人・軍婦が前線に送られ、さらに少なからざる少女が異郷で淪落し慰安婦にさせられた。これらの計り知れない辛酸血涙は、みな日本の植民地統治が残した歴史の傷跡である」
(中学生用『高級中学歴史下』)2000

第7章 日本植民統治時期の政治と経済
 甲午戦争後、日本は台湾を取得して台湾総督府を設立し、51年間の植民統治を展開した。この変局に臨み、台湾の官民はまず「台湾民主国」を成立させ、日本による接収に抵抗した。そしてそれにつづき、20年もの長きにわたる武装抗日を行った。日本は、反抗の鎮圧に全力を上げる一方で、総督専制の統治体制を建立し、なおかつ警察と保甲制度を運用して、台湾社会を有効に支配した。経済の上では、初期には農業改革を行い、台湾を日本への米と砂糖の供給地にした。後期には工業化を推し進め、台湾を日本の南進補給基地にした。
 (中学生用『高級中学歴史下』2000)

第8章 日本殖民統治時期の教育、学術と社会
 日本植民統治時期の台湾における教育と学術は、主に植民政策を貫徹させるためのものであった。教育はとくに初等教育と職業教育に偏重し、学術は熱帯医学研究と地域研究に重点が置かれていた。
 この時期、人口の激増、社会の変遷、風俗習慣の顕著な変化があった。たとえば、纏足、弁髪が禁じられるとともに、時間厳守、遵法、近代的衛生などの観念が確立された。1920年代からは新知識人たちが10余年の長きにわたる社会運動を盛り上げ、民衆の啓蒙運動を行い、政治改革や農民、労働者の待遇改善を要求した。

第9章 台湾における中華民国の政治変遷
 民国34年(1945年)、台湾は日本の植民統治から離脱し、中華民国の一省になったが、台湾省行政長官公署の施策が妥当を欠いたため、民国36年には、「二・二八事件」が勃発した。
 民国38年末、中央政府が台湾へ移り、戒厳令体制の下で台湾、澎湖。金門、馬祖の基地化を強化する一方、地方自治を実施した。民国70年代、主観的、客観的情勢の求めに応じて戒厳令は解除され、政治の民主化促進が加速された。
 この半世紀来、わが国は国際情勢と両岸関係の変化に応じ、国際的な地位の確保を求めてきたが、その対外関係は時期的に強化外交、弾力外交、実務外交の3段階に分けられる。両岸関係は軍事的対抗から平和的対峙へと変わった。
「台湾を知る」台湾国民中学歴史教科書 日本語訳 2000年 雄山閣出版

太平洋戦争の勃発後、わが国は十二月九日、正式に日本に宣戦布告した。同時にドイツ、イタリアに対しても宣戦布告。侵略国家と反侵略国家との協会がハッキリした。(略)近代帝国主義国家が勃興して、東アジア各国は日本を除いて、西洋列強の植民地、半植民地となった。日本が戦争を起こし、いわゆる「大東亜共栄圏」を樹立しようとしたのは、中国の植民地にしようとしたばかりでなく、西洋各国の東アジアにおける植民地をも奪おうとしたのである。
高級中学『歴史』第三冊、国立編訳館編・刊、1987年(教科書)



フィリピン
「日本軍の残酷さ-とくに地方での女性に対する邪悪な扱い-は、多くの市民がゲリラになる要因の一つであった。ゲリラ活動の広がりを危険視した日本軍は、フィリピン市民に対して残酷さをいっそう加えるようになった。多くのフィリピン人は、有罪無罪を問わず捕らえられ、サンディアゴ砦や、日本軍が接収し刑務所とした他の施設に送られた。家に戻ることができた者にしても、不自由な身体となっていた。」
高等学校用「フィリピン国の歴史」(一九八一年版)

日本軍はアメリカ以上にタガログ語の発達に力を入れた。彼らの目的が利己的であったかどうかはさして重要ではない。日本が、タガログ語の作家が自国語の美しさと可能性を再発見するに貢献したという事実は消し去ることはできない。
フィリピン『国史』高校生用

日本との古くからの交易関係のほかに、フィリピン人は海路により日本人との人種的混血のために多くのものを得た。例えば、頑丈な体質、企業的、野心的、また勇敢な気質を受け継いだ。フィリピン国民の苦悩が癒されるには長い時間を要したが、やがて日本とフィリピン両国は、再び平和と善隣関係で共存する必要を感ずるに至った。
『国民―新しい道』1980年

1942年4月9日バターンは陥落した。……死の行進 約3万6千の米比軍兵士と16人の将軍(うち6人はフィリピン人)がバターンで降伏した。日本軍は、文明時代の戦争のすべてのルールを無視して無力な捕虜を家畜のように集め、彼らの個人的な貴重品-金、時計、指輪、シガレット・ケース、万年筆-を略奪した。やがて、文明時代の人類を驚かした、悪名高い「死の行進」が起こった。飢え、渇き、病気、疲労に苦しむ戦時捕虜たちは、マリベス、バターンから、サンフェルナンド、パンパンガへの行進を強制されたのである。彼らには、食物も水も与えられなかった。もはや歩くことのできなかった何百という落伍者たちは、心なき衛兵たちによって、無慈悲にも銃剣で突かれて殺されたり、残虐にも打たれたりした。その行進で生き残った捕虜たちは、サンフェルナンドから鉄道貨車に投げ込まれ、ターラックのカパスにはこばれ、そこで収容された。目的地に着くまえに、多くのものが貨車のなかで窒息して死んだ。
(G.F.ザイデ著 土田房子訳「普通中学用フィリピン史」(普通中学用教科書『軍国主義―東南アジアの教科書に見る日本』合同出版)

「フィリピンの歴史における暗い時代は私たちの国を日本国が占領した時です。日本軍は、来たばかりの頃は、自分たちはフィリピン人の友達だといい、フィリピン人と日本人を結びつけるためアメリカを敵としました。彼らは、人々の食料や家財道具をはじめ、乗り物や大きな家々も取り上げました。彼らはまた、とらえた人々を拷問し、殺しました」。
(小学校4年生用『歴史』1977)

東南アジア諸国のなかで、フィリピン人が一番激しく、長く戦ったので、フィリピン人全体で一一一万人千九三十八人が戦死した。このなかには、戦場や日本の捕虜収容所で死亡した兵士たち、また日本軍によって虐殺された市民(男性・女性・子供たち)が含まれている。
フィリピンの「フィリピンの歴史と政治」

(共和国としての独立を前提とした)準備期間の連邦制10年間は、過剰な人口や工業製品を受け入れる領土を求める日本が太平洋で戦争を始めた時点で、荒々しく中断されてしまった。
 日本海軍の爆撃機は1941年12月、ハワイの真珠湾を攻撃した。米国は対日宣戦を布告し、ここに太平洋戦争の火ぶたが正式に切って落とされた。この戦争によってフィリピンは日本に占領された。
 フィリピン国民は3年間にわたって戦争の辛酸をなめさせられた。国民の自由は敵によって抑圧され、経済は日本の戦争需要に対応させられ、教育もフィリピン人の考え方を日本人に合わせるよう改変させられ、そして日本が後ろ盾になった共和国だけが政治を行った。その間に何千何万ものフィリピン人が処刑・投獄されたが、反抗の精神は占領終結まで日本当局を苦しめ続けた。
(「フィリピン人民の歴史 第8版」=ガロテック出版社)
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プロフィール
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ロイトリゲン
年齢:
42
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男性
誕生日:
1982/01/05
職業:
舞台作用員
趣味:
音楽鑑賞
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